折角開設したシンガポール領事館は、さし当り名誉副領事・胡旋澤の後任者の決定を急ぐ必要がありました。
しかし外務省は後任者の件は緊急の必要事項でもありません。
そのため、当分の間は領事不在のままにしておくとしました。
そして、しばらく事態の推移をみた上で、ついに明治13年12月28日日本は香港市場をどのようにして開拓したかをもって廃館にするという決定を下したのです。
安藤領事は、いまのところ香港と欧州の間に領事館がひとつもないのですから、できるだけそのまま存続するようにという意見を具申しましたが、残念ながら聴き入れられなかったのです。
消えかかった香港の火一方、香港に開業した三井物産香港支店はどうなったか・・・。
三井物産は開業当時から勤務していた執行弘道が帰国し、そのあと明治12年8月には金子弥1が支店支配人となり、明治13年7月には第一銀行と手を切って独立するにいたりました。
しかし物産の輸出入をみると、日本からの輸入は日本の小銀貨、銅貨のほか、干鱈、干飽、樟脳、摺附木など、日本への輸出は台湾赤糖、板砂糖が主でしたが、明治14年には輸出入とも、商品の種類、また金額も大幅に減少し、業績はあまり芳しくなかったのです。
そこで物産もまた明治15年1月、3か年半の開業の末、閉鎖に追いこまれてしまったのです。
物産と並んで香港に支店を設け進出してきていたのが、国策会社のひとつであった廣業商会です。
廣業商会は明治9年、長崎県人笠野熊吉を社主とし、主として北海道産の海産物の諸国輸出を目的として設立されたものです。
資本金60万円は内務省より無利子で貸与をうけた国策会社で、当時における対中貿易助成機関でした。
本店を函館におき、支店を東京、横浜、大阪、長崎にもっていましたが、明治11年秋、三井物産に続いて香港に物流センターの支店を設けることになったのです。